ティータイム

ティータイムその10

tea10「カーナビの指示通りに運転する人間」と聞いて皆さんはどう思うだろう?

たとえば、おなかが空いた場合、どこに食べにいこうとなる。

しかし、生理的におなかがすき過去に行ったことがあるお店を検索し、その中で今の自分の体が欲していると思われる成分の入った料理をセレクトし、あたかも私自身が決めたかのように「あ!○○へ食べに行こう」となる。

実際は体の言うとおりにしただけなのに、いかにも自分自身である「私」が決めたかのように・・・

そういうことを書くと、そんなわけないだろう。自分である「私」という「意識」とよべるようなものが決めたんだ。と反論されそうである。

本当にそうだろうか?

たとえば、トイレに行きたくなる場合は、どうだろう。時間的な縛りが無い場合、つまり、授業を受けているとか車に乗っているので、ある一定の時間帯にいかなければいけないような場合を除いて、考えてみると、トイレに行きたいと体が要求する。それに対して、ではトイレに行くかと「私」考えたようになるのではないだろうか?

最終的に「私」が行く決断をしていると感じるが、そのトイレに行った方がいいと言うアドバイスをしている何かに従って、「私」が決めたと思っているだけではないだろうか?

つまり、冒頭にあるように、「カーナビの言うとおりに運転している人間」である「私」のように
・・・

そう考えると「私」という「意識」と呼べるようなものは、そう大したことのないもののように思えてならない。運転について考えると、なおさらそう思えてならない。

つまり、脳内では民主主義のようになっているのではないだろうか?

本当に「私」と呼べる「意識」のようなものが、別次元の存在であり、人間の脳だからこそ(逆に人間の脳だからここに書いているような形態の「意識」とよべる「私」が生まれたのかもしれない)生まれたのならば、もっと意志というような物が強くてもいいきがするが、いかがだろうか?

それは、体からセンサー情報を受け取る脳細胞の言うとおりに従って、単に行動しているような気がする。

たとえば今日からダイエットするぞと「私」が宣言しても、気がつくといつもと同じように食事をしてしまったり、明日からにしようとなって、結局実行されなかったりする。

もちろんしっかり実行するケースもあるだろう。

たとえば、夏までに痩せて水着を着ようなどという目的がある場合、しかし、このケースでも違うかもしれない。そのような目的を自分で決めているとしても、なんの為に水着を着るかという事を考えると、いい配偶者を捕まえる為だったりするのかもしれない。もし、そうなら本能がそうさせるわけなので、「私」という「意識」だけではないかもしれない。

つまり、その程度の存在ではないだろうか?

だから、たとえばの話であるが、ADHDのお子さんが、いくら注意をしても、じっとしていられないなどの行動をとるのは、「私」という存在より、「脳」の民主的な全体意見で、体を動かすという事を選んでいるからではないだろうか?

いわゆる「わかちゃいるけどやめられない」ということになると思う。

ここで、言いたいのは「私」という「意識」みたいな物を軽んじることではない。

どうしても、ADHDや自閉症のお子さんの行動を理解できない方には、このように考えてもらうことで少しは理解できるのではないかと思い、反感を持つ方がいるかもしれないが、あえて自分の思っていることを書かせていただいた。(あくまても私が思っていることで、こうだといっているのではないので、ご了承いただきたい。)

だから、ある意味の結論ではあるが、いくら言ってもできないのは、やる気がないからとか、意志が弱い、とかいうことより、脳のなかでそのような事(ADHDや自閉の症状)を好む状況になってしまっているからであり、この根底を理解してはじめて改善に向かうのではないだろうか?

ティータイムその9

tea9このところ人類全体から見た高機能自閉症・アスペルガー症候群についていろいろと考えていたので、そのながれで遺伝子からみた経済についてふと考えてみた。

そこで、動物を例に遺伝子の視点で考えてみたい。
遺伝子は親から子へと受け継がれるもので、その中で強い個体はより広域に生殖活動を行い、弱い個体は行なうことが出来ない状況に陥る。つまり、強い個体の遺伝情報が多数受け継がれるわけである。

これは動物が色々な外敵から身を守りながら生きていくことを考えると、当然のことと考えることができる。つまり強い動物が生き残り弱い動物は子孫を残すことが出来ずに一生を終える。この結果、種は強い遺伝子を持つものを多数受け継ぎ、繁栄に向かうわけだが、ここで強いということを考えてみたい。動物において強いとは、外敵や同種対して強いということで、体力的、あるいは知的に優れているということを指すだろう。

ところが人間を例に考えてみるとどうだろう?

たしかに数百年ほど前までは強ければそれでよかったかも知れないが、人類は経済を発展させた。その結果、体力的に優れていることや、知的に優れているよりも、経済的に優れている者の方が、強いという事になってきた。

これは遺伝子的に見た場合、どうなのだろうか?
たとえば、一例ではあるが土地成金や宝くじに当たったような場合、経済的には強いわけだが、遺伝子的に見た場合、決して強いわけではない。
また、親から受け継いだ企業や財産がある場合も同様で、親は知的に優れていたかも知れないが、子が優れているとは限らない。

それらの場合でも、子孫を残すことを考えると、やはり一般的には強い訳なので、この遺伝子がより広域に残ることになる。それは、裕福であれば、子供が何人いても生活できるし、いいことではないが、他のところで子供を作る場合もあるだろう。

そして、経済という指標で見た場合、人類は発展するのだろうか?

広い視野で考えた場合、経済優先になってしまって環境破壊などに進んでしまったり、本来なら、世に出ない問題がある何かでも、自分たちの経済を優先させて世に出してしまう者もいる。

たとえば最近の例では鳥インフルエンザの疑いがあるにもかかわらず出荷してしまった業者とか、いろいろな問題が後々出てくると思われる。

その結果、本来遺伝子が持つ目的?であろう強い遺伝情報を残すことが、出来になくなるうえに、環境破壊や自ら種の存続を左右するような行動をとる可能性があるように思うのはわたしだけだろうか・・・

ティータイムその8

24のシーズン1を一気に3日ほどで見た。tea8

すごくおもしろかった。というより3つの話を絡めながらテンポよく展開する様は、画面から離れさせない十分な効果があった。もちろんここで24の話をするつもりはない。

ここで言いたかったのは、公立の小学校の授業時間についてである。長い時間、場合によっては1日に同じ教科が2回あったりする。しかも、国語などがである・・・

45分単位で同じ教科が1日に2回あるような時間割・・・ゆとり教育の問題で勉強ができなくなっているのではなく、昔より周りが早く進んでいる時代に、いままでと同じ45分間授業をしていることが問題ではないだろうか?

いまは、のんびりした時代ではない。ただでさえ子どもの集中力を維持できる時間は短いのに、45分も同じ科目では好きでもない科目の場合、飽きてしまい身に付くはずがない。

そこで24が出てくるわけだが、短い時間に集中して次々と勉強する方が結果身に付く。長くだらだらと嫌いになるようなやり方をしていることが問題だと思う。

短く区切ってテンポよく勉強する場合→集中力を維持できる。/あきにくい。

45分授業の場合→集中力が維持できない。/あきやすい。

と思うのだか・・・

ティータイムその7

存在とは・・・tea7
ふと気になることを書いてみたくなった。もちろん大した意味があるわけではないが、存在とはどういうことかなと思って、まとめてみた。

辞書などで調べると、存在とは「事物(や人)がある(いる)ことを示す」となっているが、あるとはどういうことであろうか?

目に見えることが、あるということと思っている方が一番多いとは思うが、暗闇で見えなくても、明るいときに、そこに何かがあることを知っていれば、暗いから見えないだけだとわかるはずだ。
しかし、今が暗い状態ということを認識できない場合はどうだろう。きっとその場合は、なにも無いと思ってしまうことだろう。
つまり、あるから見えるのではなく、見えるからあるとわかるので、見えなくてもそこに何かある場合がありえる訳である。

顕著な例は幽霊であるが、見えるという人がいる。でもほとんどの人は見えない。では幽霊がいないのかというと、それはわからないと思う。通常、見えるということは、脳がそう感じることなので、もし、見えたと感じれば、そこに存在したと感じた原因がある訳(幽霊がそこにいたということを直接には示さない)だ。つまり、本人にしかわからないということになる。もちろん最新の科学技術で何かの存在は突き止めることが可能かもしれないが、現時点で検地できるレベルということになる。

また、別の観点からみてみると、実例ではあるが、一般的に聞こえる音域より、高い音域の音が聞こえる人がいる。つまり、一般の人には聞こえない音が聞こえることがあるということだ。

そして、これは自分のことだが、暗闇で他の人よりよく見える。回りの人は躓いたり、ぶつかったりしていても、自分だけは暗闇で問題なく歩行できる。

このように、他の人と違う場合もあるので、幽霊が見える、見えないというのも、うそとは限らない。ただし、本当にそれが幽霊かどうだかは疑問だが・・・

結論として、存在するということは、見える・聞こえる≠存在(見えなくても聞こえなくてもそこに何かがある場合もある)ということになる。もちろん脳が何かを感じた場合、実際になくても本人にとっては何かがあるということにもなる。

もっと進めると、何も無くても脳があると感じれば、ある意味現実として受け入れられてしまう。現実を感じるのは脳なのだから、つまり、現実か非現実かという問題はあるものの、脳が感じるか感じないかと、どうちがうのかということになる。だからネット上の問題で殺人事件が起きたりもする訳だ。本人にとっては、そこに問題が生じている訳だから、一般的にいう非現実だろうと、脳が問題を感じている事は事実なので、問題を排除する為に、現実の問題(この場合、その問題を起こした人)を排除して、ネット上における問題の進行を食い止めたという訳だ。

なんだか取り留めのない話になってしまった。

ということで、そろそろお茶も飲み終わり、また次回のティータイムに・・・

ティータイムその6

tea6久々このメモを書いている。さらにティータイムはもっと久々ということになる。

なにを書こうかと迷ったが、今回は算数や数学について少し書いてみたい。

実はこの間から、小学校の算数と中学数学の本を買ってきて、一からやり直してみた。意外に驚いたことにあまり内容がないというか、同じことの延長線・・・応用という感じであったことだ。昔はなんだか色々と覚えたり新しいことをやってきた気がしていたが、数学系は覚えるのとは違う(もちろん最低限覚えることはある)為、気がつけばそんなにたくさんのことをやってきたのではない、ということを改めて発見したことだ。ということは教え方や勉強方法によっては、何も小中9年であんな少ししか勉強しなかったなんてことにならないよう、いろいろとやれるのではないかという気がしてきた。中学でやる図形の証明だって、小学生時代にもっと面白くゲーム的にどんどんやらせてもいいのではないかという気さえする。もちろん勉強としてではなく遊びで・・・・

そろそろ時間が来たので、また次のティータイムで・・・・