天才

目指すのは天才?それとも凡人?

今回は「天才はなぜ生まれるのか」正高信男著 ちくま新書 を読んで気になったことをメモしていきたい。

「障害というのは必ずしも能力が劣ることだけを意味するわけではない。機能が不全の箇所が生ずると、それを代償して機能の亢進も起こる。障害を持っ たゆえに、障害を持たない場合には生じえなかった能力が開花することを、無視してはならないだろう。それは、個性にほかならない。
ただ単に劣っている面を穴埋めして、健常な状態に近づけることは、往々にして、その個性の芽をつむことにつながってしまう。そうではなくて、学習障害を持ったがために真にユニークな存在に障害者をするための支援というものを、私たちは考えなくてはならないのだ。」と書かれていた。

一般的に親の立場からだと、このような考え方になるのは難しいかもしれない。それは、日本人の社会性にあると思う。元来日本という国は個性を尊重す るより、”皆と同じ”ということにポイントを置いているからだと思う。さすがに最近は変わってきたが、親の世代からみると、まだまだそのような考え方も存在するであろう。

その為、他人より劣る部分に注目してしまい、勝る部分はどうせ勝っているんだから、勝手にのびていくと思って、劣る部分を日々トレーニングという形にもっていってしまう。

その結果、本来勝手にのびていくと思っている部分が停滞し、劣っている部分はもともと劣っているので、相当な努力が必要なうえ、日々”出来ない”という気持ちにさらされ、成功体験も少なく劣等感のみ強化されていってしまう。

これでは、何年もかけて、やっと人並みになったとしても、本当によかったのかどうか、わからないということになるのではないだろうか?

もし、ここで、全然違う方法で、まず、得意な勝っている所をどんどん伸ばしてやり、劣っているところは手つかずとはいかないので、何もしないで、忘れてしまうことが無い程度に努力してもらう。

その結果、やる気も起き、得意なところが、どんどん伸び、成功体験を多く積むことだろう。

そして、劣っているところもある意味プラス思考的にチャレンジする事ができ、何年か過ぎて振り返ってみてみると全体的に伸びているという事になるのではないだろうか?

また、そのように言われるケースもある。

まさにこの冒頭の「天才はなぜうまれるか」に書かれていたように・・・

子どもでも大人でも自信を持って取り組めるのと、自信がなくびくびくして、取り組むのでは全く違う結果になることが多いだろう。

だから、劣っているところを持ち上げれば、普通になるんだからとよく子どもを頑張らせているお母さんがいるが、この辺の所をよく考えてみてもいいのではないかと思う。

もちろん、その考えが間違っていると言っているわけではない。

違う考えもあるということを知ってもらい、自分の子どもにはどちらがあっているのかを、考えてもらいたいだけだ。(特に凸凹している特性の差が大きければなおさらだ。凹だけなら、当然そこだけを強化という考えもあるとは思うが、本当に凹だけならばの話である。)

しかし、そのようなお母さんは、これ以外にないと思いこんでいるので、他人の意見は聞く耳を持たない事が多い。

だから、自分で気がつくまで待つしか無いとは思うが、子どもの時間は取り戻せないので、あとで考えて、しまったとならにようにと願うばかりだ。

注意欠陥障害なのに、人並みはずれた集中力とは?

今回も「天才はなぜ生まれるのか」正高信男著 ちくま新書 を読んで気になったことをメモしていきたい。

「史実に即すると、エジソンは小学校入学当時、典型的な『落ちおぼれ』生徒だった。だから、みんなについていけず、三ヶ月でドロップアウトしたのである。
端的に授業時間中も、ボゥーッとしている。先生が話をしても、うわの空の様子である。自分ひとりで、空想にふけっているようである。当たられても、答えを返すことはおろか、返事もまともにできない。むろん読み書きや、簡単な計算もままならなかったことは、疑う余地がない。<中略>
最近、心理学や神経科学で用いられている専門用語で表記すると、エジソンの示していた兆候は『注意欠陥障害』のお手本のようなケースにほかならない。」と書かれていた。
この本ではさらに、この件について説明が続くが、ここでは少し簡単に具体例で説明したい。

仮に今、舞台で演劇を見ていると仮定しよう。
通常、舞台で台詞を話す人を中心に見ると思うが、たまに脇役の些細な動きに注目している子どもがいる場合がある。

そのような時、親子の会話はこんな感じだ。

子ども「○○(脇役)はこんなことしてたよ」
親「あなた、そんなところよく見ていたわね?いつそんなことしていたの?」
子ども「□□のときだよ」
親「そう、全然気がつかなかったわ・・・」

これは子どもの観察力がすばらしいと思ってしまい、気がつかないかもしれないが、注意欠陥障害というケースもあるかもしれないので、このようなケースが続く場合、注意が必要かもしれない。

解説すると以下のようになる。

まず最初、舞台に注目する状態にある脇役がいて、次に主役が出てきて台詞を言う。
この場合、一般的には、脇役に視線をおいて、次に主役に移動させるのが普通である。
ところが、注意欠陥障害の場合、いったん脇役に注力してしまうと、その脇役が舞台にいるうちは視線を他へ移す事が出来ず、その脇役が舞台から消えるまで、注力しつづけるということになってしまう。これが人並みはずれた集中力ということに繋がる。

そのため、先ほどの例のように、人が見ていない脇役の動きまで見ていて親がビックリしたということになる。

しかし、この例でも、最初脇役がいて、台詞を言い、舞台を去って、主役が出てくればなにも問題は起きないようだ。

つまり、対象物をなくなったことで、次の対象物へ視線を移すことができるからだ。

注意欠陥障害とは一般の人とは異なり、注意の向け方が、少し違うということだ。注意散漫ではなく、他の人より、集中している状態になっているということだ。

最後に、この書籍の例を、わかりやすく演劇と実例に照らし合わせて表現してみたが、逆にわかりにくい方もいたかもしれない、そのような方は、直接書籍を参考にしてもらいたい。

レオナルド・ダ・ヴィンチは読字障害?

今回も「天才はなぜ生まれるのか」正高信男著 ちくま新書 を読んで気になったことをメモしていきたい。

「歴史家や科学史家は、神経心理の知識を持ちあわせていないので見逃しがちなのだけれども、明らかに、レオナルドには脳に障害があった痕跡が認められるのだ。その端的な兆候として、メモをとらえることができる。
いわゆる読字障害といわれる、学習障害の一種である。彼は文字を読むのに困難を感じていた。だから、正しく字をつづろうとすることには不自由した。それで、ああ書くしかなかった。つまり、敢えて反対につづろうと工夫していたわけでなく、上手く書こうとすれば反対にしか書けなかったという方が真実に近い。
実はこれは、さほど珍しくない障害の部類に属する。アインシュタインと同じように、脳の頭頂の部位が機能していないことに由来する。」と書かれていた。
初めて聞いた方も、いるのではないだろうか?

エジソンやアインシュタインの障害は割と有名?だと思うが、レオナルド・ダ・ヴィンチまでも・・・と思うのではないだろうか?

そう、彼は今生きていたら、明らかに落ちこぼれに属するだろう。

しかし、彼は他人より劣る部分を補おうとはしなかったとのことだ。

また、彼は、すぐに事柄を忘れてしまうことに気がつき、メモを取る事で補おうとした。

これが、結果として、彼の才能の開花に繋がったのだろう。

もし、彼が他人と比べて劣る部分を補う事にのみ、その力を使ったなら、今の名声は全くなかったことだろう。

そもそも、普通の多数派ではない種族として、生まれてきたのに、見た目が同じだから、違いに気がつかず、普通になることを強要することで、才能をつぶしてしまうこともあるだろう。

たとえば、車を例に取ると、ファミリーカーの中にF1マシンが混ざっていて、その違いに気がつかず市街地を走らせたら、F1マシンは、話にもならない障害カーとなってしまうだろう。

ガソリンは食うし、雨が降ると濡れるし、荷物は積めないし、道が悪いと走れないし、一人しか乗れないし・・・・

となり、まさしく障害カーという位置づけになるであろう。

でも、F1マシンはレースカーとしてなら、最高のパフォーマンスを出せる。もし、ファミリーカーでレースに出ようものなら

遅い、タイヤ交換に手間取る、給油に時間がかかる、パーツ交換に手間取る、シートの密着性がない・・・

つまり、違う環境でこそ、それぞれの力を発揮出来るはずなのに、見た目が同じだと、本来の違いを認識できずに、醜いアヒルの子状態になってしまう事も考えられる。

もちろん、どちらがアヒルになるのかはわからないが・・・

いつも、思い、そして、ホームページやブログで書いているが、日本人は同じようにすることを好む方が、まだまだ多い。

つまり、それだけで、上記の車の例と同じようになってしまう。
だから、同じが良いという事を少し忘れて、いままで障害(個人的に障害という表現は使いたくない。読みにくく理解しにくい文章になるといけないので、あえて障害とかかせていただいた。)と思った子どもや事柄を見てみてはいかがであろうか?

きっと、違う何かが見えることがあると思う。

アンデルセン・・・おまえもか?

今回も「天才はなぜ生まれるのか」正高信男著 ちくま新書 を読んで気になったことをメモしていきたい。

「アンデルセンにとっての母語であるデンマーク語は、ドイツ語よりもっとラテン語の面影をとどめた言語体系なのである。私たち日本人にとっては、文法規則が煩雑でむずかしい。逆にデンマーク語話者にとっては、ラテン語は自分たちのことばとよく類似していて、ふつうはマスターするのにさほど苦労しなくてすむものなのである。それでもアンデルセンは学習できなかったことを、考慮する必要があるだろう。
彼は、やる気がなかったわけではない。また他の学科の成績は、決して悪くなかった。それがラテン語となると、いくら勉強しても語尾変化をマスターすることができなかった。これは一般に文法障害と言われている。一種の学習障害と考えられる。
日本語は幸か不幸か、文法規則が厳密でない。それゆえ障害の有無が歴然としないのだが、ラテン語は日本語と対極をなす体系である。それゆえ障害をもっている時に、それがはっきりとわかる。言語的規則性を習得することを、たいへん困難にする障害を持って生まれてくる人々が世の中には少なくない。アンデルセンは、その一人だったのである。」と書かれていた。
アンデルセンもか・・・という雰囲気ではないだろうか?

そう、アンデルセンもである。

やはり、才能と引き換えに何かを手放しているという感じであろうか?

上記にも出てきてはいるが、日本語は多少語順を変えても、それほどおかしい気がしない言語である。

そうなると、表だってはいないが、文法障害を持っている人は結構いるかもしれない。

そういえば、あの人話し方が変だとか?

あの人のメモは意味不明だとか?

思い当たる事柄が割とあるのではないだろうか・・・

実は結構いたりすると思う。

ところが、ADHDや自閉症のように目立っているわけではないので、気がつかずに普通の生活を送っていることも多分にある。

そう考えると、普通とはなにか?

才能とは何かと思ってしまう。

日本人は一般的に普通を好む種族ではあるが、普通でないというこが、才能や天才に繋がるケースがあるならば、普通と違ってもいいではないだろうか。

もちろん、周りに迷惑をかけてもいいと言っているわけではない。

特に、親が自分の子供をみて、普通と違うということを悩むより、いいところを見て、才能を伸ばしてみるのも、いいかもしれない。

グラハム・ベルまでも・・・

今回も「天才はなぜ生まれるのか」正高信男著 ちくま新書 を読んで気になったことをメモしていきたい。

「1890年、ベルは妻に次のような手紙を書き送っている。『私は歳をとるにつれて、自分の中に引きこもり、自分の思考にふける傾向が、ますます強くなってきている気がします。父やおじに見られた傾向がもっと極端な形で出ているようなので、そういう血筋なのだと思います。子どもにも見られるものの、 さほどひどくないのは、まだ幼いからでしょうか。こんな傾向がないのは、あなただけです。だからあなたこそ、私を外の世界とつなぐ、大きなきずななのです。』(ブルース、唐津一訳【孤独の克服】NTT出版)<中略>彼自身が察していたように、遺伝的に先祖から受け継いだ、一種の資質なのだと思われるのである。高機能自閉症、あるいはアスペルガー症候群と呼ばれている障害をベルが負っていたことは、まず疑問の余地がない。<中略>『あなたはいつも、他人のことに気をつかっていますね。でも私はどういうわけか人々のことより、物事に興味があるのです。ひとりひとりの個人というものより、全体としての人類というものへの関心の方がずっと強いのです。』(前掲書)」と書かれていた。
あのグラハム・ベルもだったとは・・・

と思われているのではないだろうか・・・

いろいろな偉業を達成してきた人間はなぜかこうなっている。

というより、もともと他人とは異なる為、このような偉業を達成する。

そう考える方が自然のような気さえするのではないだろうか?

理論的に考えればなおさらそうだろう。

それは、一般人と異なるから、異なった視点でモノを見たり考えたりする事が出来る。そのうえ、自閉的性格の場合、こだわりをもって物事に接するので、とことん追求し、最後はなにか一般人には想像もつかないような事を達成したりする場合がある。

もちろん、全てそのような人たちが偉業を達成するわけではないが、他人と異なるということは、違う視点で物事をみたり、考えたりするから、何か成し遂げる可能性は高いかもしれない。

そう思うと、軽度発達障害で悩まれている親御さんは、自分の子供をプラスの側面からよく見ることをお薦めする。

何度もいうが、プラスの側面からだ。

こちらが常識に捕らわれていると、子供のプラスの面に気がつかないこともあるので、常識をわすれてみるといい。

しかし、それができなから、普通の人となるわけで、それゆえ子供を理解できないということにつながってしまう。

でも考えてみて欲しい、人間社会は所詮宇宙からみたら、こんなに小さい太陽系のちっぽけな惑星で、小さな社会を形成し、人間が考えた穴だらけのシステムで社会を運営しているに過ぎない。

そこから多少はずれてもいいではないか、迷惑をかけなければ他人との違いは結構、だからなにか成し遂げる可能性が高いんだから・・・と考えればいいことだ。
そして話は変わるが、グラハム・ベルの手紙には面白いことがここには書かれている。

「ひとりひとりの個人というものより、全体としての人類というものへの関心の方がずっと強いのです。」

これは大変面白いポイントだと思う。

つまり社会でいうと、一般の人は、地元や自分の住んでいる地域に興味があり、日本全体に関わることはさほど興味がない、というような感じではないだろうか?

もし、グラハム・ベルならば、きっとこう言うだろう。

「地域社会も大切だが、日本がどうあるべきか、どうしていかないといけないか、その方が、地域のことよりも気になる。」

どちらが重要かは色々と意見がわかれるとは思うし、その時代の問題もあると思うが、常に全体を考える人間がいなければおしまいである。

もちろん、普通の人はみな全体を考えないと言っているのではないが、バランスが逆なだけである。

そういう人の存在も大変重要だ。