自閉症

自閉症と天才と普通の人

今回も前回と同様に「痛快!頭を良くする脳科学」 澤口俊之著 集英社インターナショナル を読んで記載してみたい。
「サヴァン症候群の患者さんは、『自閉症』を併発しているケースが圧倒的に多いとされています。-中略ーその患者さんの脳をしらべると、前頭連合野の活動が極端に少なくなっていることがわかっています。しかし、なかなか有効な治療法がないため、成人後まで尾を引くケースが多いのです。こうした自閉症児のなかに、サヴァン症状を見せる人がいるのです。-中略-自閉症であったナディアは5歳のころ、精神年齢が3歳と診断されます。5歳でIQは50ほどだったという。ところが、彼女に絵を描かせてみると、これが芸大の実技試験でも簡単にパスするほどの腕前。-中略-さて、自閉症児にもかかわらず、ある特定の分野で天才を示す—-そこまではいいとして、ナディアの画才を認めた周囲の人々は、たぶん親心もあって、一般社会でも通用する人間に育てようと、美術以外の分野の教育を受けさせたのです。やがて、前頭連合野の成長がひとまず成人レベルに達する12歳ごろ、ナディアは一見ふつうの生徒と変わらない少女に成長します。しかしながら、豊かな画才はあとかたもなく雲散霧消してしまったのです。-中略-美大の優秀な学生に知能テストをしてみたら、ほとんどの学生で言語能力の成績が極端に低かったのです。」

この話は、非常に興味深いものだと思う、脳には活動依存的変化といことが起き、強いところが弱いところを押さえ込み、より強くなっていくものであり(簡単に言えば弱い部分を強いところが侵略していくようなもの・・・まるで人類そのものでは?)、もしナディアの芸術的才能を強化すればそのままその才能は残ったであろうが、他に向けた為、天才的才能は消えてしまった。これはスポーツで考えると良くわかるであろう。サッカーでFW・MD・DFがいる。簡単に言えば攻撃の立場が強い選手と守備の立場が強い選手がいて、その比率をどうするかで攻撃型か守備型かということになると思ってもらうとわかりやすい。点がとりたいので攻撃型の選手を入れる。ところが11人しか使えないので、守備の選手を一人減らす。そうすると攻撃の立場が+1人で守備が-1人となる。これと同じように思ってももらうと脳の活動依存的変化について、理解がしやすいと思う。しかし、脳は監督がいてジャッジできるわけではないので、困ってしまうわけだ・・・

皆さんも良く知っているエジソンなんかも学校で勉強ができなかったが、発明という分野でとんでもない才能をあらわしている。そのようなことから天才と変人の差はと考えてみると、一般的に難しいと思われる、芸術・学問・スポーツの分野で特別な才能を示す人は天才とよばれるが、それ以外の分野に精通してる場合、変人といわれるような気がする。単に、分野が違うこともあるのではないかと思う。もちろん、天才がおかしいといういみではないし、すべてなんでもできる超天才的人もいるかもしれない。

別の言い方をすると一般的ということは、すべて平均的ということであり、天才や変人はある分野で特別の能力を示すもので、他の分野ではあまり目立っていないか、平均より劣っている場合も多いと思われる。

たとえば特別な才能がなくても、ソーシャルスキルが普通レベル以上であると、それは普通の人に見えるのだろう。というより、それが普通の人なのだろう。そう考えるとどちらがいいのかと思ってしまう。天才的才能を持って、普通の世界で生きづらいほうがいいのか、特別な才能が無くても、普通に生きていけることがいいのか・・・?

選べるとしたらあなたはどちらを選択します?私はできれば前者を選びたい・・・。

セロトニン神経と自閉症について

今回も「セロトニン欠乏脳―キレる脳・鬱の脳をきたえ直す」 有田秀穂著 生活人新書NHK出版 を読んで記載したい。「自閉症の子供ではセロトニン神経に障害があり、ハイハイのできない場合が多くあります。」と記載されていた。

これだけでは、説明が足りないので補足するが、セロトニン神経を強化するのは歩行・呼吸・咀嚼なのどリズム運動であり、ハイハイは歩行のリズム運動のはじまりである。そのハイハイがうまく出来ないため、問題が起こるという流れだ。これはドッツカードでよく知られているドーマン博士のプログラムでもよく出てくるが、ひたすらハイハイを行うというものだ。つまりセロトニン神経の強化という観点からも頷けるものであった。

ただ、これは単に自分が思うことであり、なんの根拠もないが、早く立ち上がる。もしくはハイハイをしない。この2つは同じではないが、ハイハイをあまりしないで立ち上がるケースもあるということだ。これはセロトニン神経が弱い状態にある可能性は十分にあるが、もちろんイコール自閉症ではない。ただし、早く立ち上がるということは普通の動物を例にとるとわかるが、生命の危機があるから早く立ち上がるわけである。しかし人間の場合は少し違う。早くたちあがるということは早く両方の手を自由に使うことができるチャンスがくるということにもなる。十分なハイハイを行う利点は色々とあるが、早く立ち上がる利点もあるはずだ。しかしこの部分の論文などは見たことがない。どなたかご存知なら教えていただきたい。

ちなみにこれは自分のことであるが、生後10ヶ月で歩き出した。そして、現在は両手利き腕である。いまも右手にマウス左手にもマウスで2つのPCを操作している。基本は右利きだが、左手でもほとんどのことはできる。このサイトも全部左手で作ったものだ。もちろん右でも同じようにできる。だからといって、早く立ち上がれば両手利き腕になるということでもないはずだ。ただし、セロトニン神経は弱い。これは当たっている。

モーツァルトの才能

今回は「子どもの脳が危ない」 福島章著 PHP新書 を読んで記載したい。「脳に微細な変化を持った子どもが、ときに思いがけない才能を持っていることもある。これを発見し、その才能を認め、これを伸ばすこともこれからの教師の仕事である。たとえば、モーツァルトの父親が、天才的だが変わり者の息子を適切な指導によって大音楽家に育て上げたことをお手本にすべきであろう。このような個性と才能の発見と育成こそが、これからの時代の教育の理念でなければならない。それこそが、その子にとっても社会にとっても有益な事になる。」と記載されていた。

この部分だけだとなんのことかモーツァルトがどうしたのか、よくわからないと思うので補足しておく、ここで言いたいことはADHDや自閉症など、脳に微細な変化を持った子どものなかに、なんらかのずば抜けた才能をもっている子どものいるケースがあるということである。

しかし、問題行動の方が目立ってしまうため、才能の部分に目がいかず、普通に行動させることばかりに気を取られてしまう。その結果、すばらしい才能があったとしても、それに気がつかず、才能を封じ込めてしまう場合があるということだ。特に親の場合は普通にさせることを最重要と考える傾向があるので、逆に教師やその子どもに外部から関わる者の方が、才能に気がつき、その才能を育成しやすい場合もあると思われる。

もし、モーツァルトの父親のように、親が子の才能に気が付いた場合、一番近くにいてフォローしてあげられるという事もあるので、大変力強いはずだ。

人類全体から見たADHD,自閉症など

今回からは「子どもの脳が危ない」 福島 章著 PHP新書 を読んで気になったことをメモしていきたい。

「人類全体の未来を考えるとき、環境ホルモンなどによって生じる脳の形態の変異も含めて、脳と性格の多様化が種の維持にプラスの意味を持つ可能性も考えてみた。進化の過程でDNAの変異は常に必ず起こっており、そのうちの大部分は環境に適応しないので消滅する運命にあるが、そのうちの少数の変異は環境の変化に対応してかえって適応能力に優れていた。変わり種の存在を尊重することは、俗ないい方をすれば、保険をかけるのと同じようなものである。彼らの存在は、ときには社会的コストとしか感じられない場合もあろう。しかし、社会が変貌したり、自然環境が変化したときに生きのびられるのはどのような人なのか?それは、人知では予測できない。だからこそ、人類は多くの個性豊かな人種に分化し、同じ人種の中でも、多くの個性を生み出し、病人・障害者も含めてこれを包みこみ、未来の生活環境の変動にそなえているのだ。微細な脳障害を持った人々もまた、現代社会にとって不適応を示す可能性が高いものの、また新しい文化の担い手として、これからの社会に必要な人材の供給源となる可能性も否定できない。」と書かれている。

この考え方はすごく良い考え方であると思う。まず、日本人は皆同じ物を好んでいた。つまり皆と同じ事に価値があると思っていたわけだ。最近は変わっ てきただろうが、ファッションにしても個性が無かった。同じでないことがダサかった。いまは変わってきたとはいっても、その考え方を持っている世代が現在親となり子育てをしている。

以前のメモでもふれているが、多様性があるからこそ、種の存続をはかることが出気るわけだ。皆同じ血液型、体質、好みだと、同じ種類の驚異でその種は滅びてしまう。多様性があるから、種の存続をはかることだ出来る。

そこで、障害とはなにか?障害者とはどういうことか?を考えてみたい。健常者というワクを考えた場合、そこからはみ出す人を障害者と位置づけているのではないか?厳密にいえば違うかもしれないが、多数側から見た表現にすぎない気がする。

電気製品で考えてみるとわかりやすいと思うが、普及版のものを、あるいみ健常者としよう。そして、最新の新しいものを見た場合、使いにくければ支持されない。その使いにくい、支持されない点をあえて障害とみることも出来るかもしれない。

しかし、たまたま使いやすく、ある優れた点を評価されれば、新製品と奉られる。ちょっと表現がオーバーになってしまったが、電気製品の場合、所詮そんな感じであると思う。

今度は多数少数という観点からみてみたい。人に関して言うと、左利きの人がいる。基本的に多数にあわせて右利き用に世の中はできているので、ある意味で左利きの人は多少生活しにくいと思う。電車の改札も右側に挿入口があるし、パソコンのマウスもデフォルトで右利き用にしてある。多数いるのだから当たり前である。じゃあ左利きは障害かというと、厳密に脳の機能までみると変わってきてしまうが、単純に肉体的に見た場合、単に利き手が左なだけである。

しかし、何度も言うが本人は多少生活しにくいと思う。慣れてしまえばこんなものであろうし、他人には迷惑をかけていないから、問題ないと言うかもしれない。もちろん左利き自体の人数もそこそこいるので、左利きに対する対応も、社会がある程度出来るようになっていることもあるだろう。そういうこともあり障害と呼ぶ必要もなければ、誰も障害とは思わなだろう。ただし、もし1000人に1人程度なら、社会の対応も出来ていないし、あまりいないため遭遇すると周りもいやがる可能性もあり、本人も生活しにくいだろう。そのような場合、障害と呼ばれることがあるのかなと思ってしまう。もちろん左利きの方を障害とは思っておりませんので、ご理解いただきたい。

今度は、障害ということについて別の観点からみてみてみたい。たとえば自分の容姿などが嫌いで、他人とあまり接触したがらない状態で、他人と口もき けなくなったりした場合、明らかにコミュニケーションの障害になっている。そこで気になるのが、障害者という呼び方だ。この場合先天的でないので、障害者と呼ばないだろう。じゃあ先天的な場合、障害者とよび後天的なら呼ばないのか?そんなこともないはずだ、事故などで、後天的に身体が不自由になった場合、障害者と呼んでいるケースもあるはずだ。つまり、先天的でも後天的でも障害者と呼ぶケースがあるのかだら、先天的・後天的の問題ではではないのだ。

じゃあ、いっそ辞典で調べてみよう。

身体または精神に何らかの障害をもつ者。心身障害者。三省堂提供「大辞林 第二版」より

とのことだ、なんだかさっぱりわからない。この表現だとみんな障害者になってしまう。

まあ現時点でみると、「一時的な場合、障害」といい、「永久的な場合、障害者」と呼ぶのが近いのかなと思う。

結局「障害」「障害者」という言葉は、多数派からみたある意味差別的用語と感じてしまう。痴呆症も認知症云々といっているぐらいだから、とくに「障害者」という表現は変えてはどうだろうか?

人の場合、多数派でなくても、その本人が多数派の社会に入って苦しくなければ、障害と思う必要はないと考えたい。本人が苦しいなら障害と思っても仕方がない。ここで言いたいのは「本人の気持ち」である。決して親の世間体や家族、世間の人の気持ちではない。

そういうわけで、たまたまADHDや自閉症であったとしても、その可能性を無視して、皆と同じようにする事、社会で普通に見えることだけにこだわらないで、もっと大きな気持ちで、見てみるといいのではないかと思う。特に社会に何とか適応しているADHDや高機能自閉症、アスペルガー症候群の人たちの中には、ある程度社会と関わりをもった上でまわりが羨むほどのとんでもない才能を持っている場合が、多々あるのだから・・・

高機能自閉症・アスペルガー症候群、そして変わった人について

今回からは「高機能自閉症・アスペルガー症候群入門―正しい理解と対応のために」 内山登紀夫・水野薫・吉田友子 編者 中央法規出版 を読んで気になったことをメモしていきたい。

「自閉症スペクトラムとはカナーの提唱した自閉症に、アスペルガーの提唱したアスペルガー症候群、さらにその周辺にあるどちらの定義も厳密には満たさない一群を加えた比較的広い概念で、社会性・コミュニケーション・想像力の三領域に障害があることで定義されます。『スペクトラム』とは連続帯という意味であって、典型的は自閉症からアスペルガー症候群、重度の知的障害をともなう例から知的は遅れがない例まで、連続した一続きのものとみなします。」と書かれている。

これをみて、何を今更と思うかたも多いだろうし、スペクトラムの意味がわかった方もいるのではないかと思う。ここで言いたかったことは、社会性・コミュニケーション・想像力すべて広義の意味でコミュニケーションではないか?ということだ。想像力は違うだろうという声も聞こえてきそうだが、他者の心の状態をはかり知るという意味での想像力もある。ということで、少し乱暴かもしれないが、コミュニケーション障害と思うとわかりやすいだろう。それに自閉症スペクトラムというぐらいだから、一般的に気がつかないだけで、統計数値より実はもっと多かったりするような気がする。

さてここでコミュニケーションについて少し考えてみたい、まずはコミュニケーションとは何かについて、この頃得意になっている辞典で調べてみよう。

人間が互いに意思・感情・思考を伝達し合うこと。言語・文字その他視覚・聴覚に訴える身振り・表情・声などの手段によって行う。三省堂提供「大辞林 第二版」より
ということだそうだ。つまり、言語やその他の手法で意志や感情を互いに伝達することである。

そこで、非常に閉鎖的な外国を想像して、言語は通じるという前提で、そこのごく一般的な人に対して何か意志や感情を伝達するケースを考えてみると、場合によっては自国の高機能自閉症・アスペルガー症候群の人の方が、話が通じやすいのではないだろうか?

つまり高機能自閉症・アスペルガー症候群の人を、習慣や好みの違う外国人と思ってみるといいのではないかと思う。

そう思うと色々と目につくことや奇異な行動は、些細なことのようにも思える。でも、そんなことはない、自分の子どもだったらそうは言えないはずだという声も聞こえてきそうだ。

それは今の親の世代の考え方は、自分たちが同じにしていないといけないという環境で育てってきているので、そのものの見方の問題もあるのではないだろうか?まず親は自分の子のマイナス面はマイナス面として認識し、もちろんきちんとサポートする。その一方で得意であるプラス面を見つめ直す必要があるだろう。

たとえば、このような子はイジメにあいやすいだろう、コミュニケーションの障害があるのだから、変な奴ということになりやすい。その結果、当然のようにイジメにあいがちだ。そこで、マイナス面を強化して、普通に近づける努力をし、何とかしても、感覚のずれは、やはりわかるし、つい表面にでてしまうし、出っはなしということもあるだろう。

それなら得意である部分を強化すると、普通の子にはできないレベルの能力を持っているケースがある。先生もびっくりの記憶力であったり、絶対音感及び音楽の才能であったり、大人顔負けの絵の才能だったりと色々だ。(もちろんすべての高機能自閉症・アスペルガー症候群の人がそうであるといってるわけではない。)そこをクラスや集団のなかで発揮するチャンスが訪れれば、周りもびっくりして見直すに違いないというより、びっくりして尊敬されることもある。現実にそのような事も聞くことがある。(皆さんも知っている映画で「レインマン」なんかわかりやすい例だろう。)

そういうチャンスを得ることができると、セルフイメージが高くなり、良い方向へ進み、変わっているが優秀な人として生きていけるとおもうのだが・・・現にそういう大人があなたの周囲にもいませんか?スペシャリストとして活躍している人の中に・・・もちろん変わった人がすべて高機能自閉症・アスペルガー症候群と言っているのではありませんので、ご了承いただきたい。