ADHD

人類全体から見たADHD,自閉症など

今回からは「子どもの脳が危ない」 福島 章著 PHP新書 を読んで気になったことをメモしていきたい。

「人類全体の未来を考えるとき、環境ホルモンなどによって生じる脳の形態の変異も含めて、脳と性格の多様化が種の維持にプラスの意味を持つ可能性も考えてみた。進化の過程でDNAの変異は常に必ず起こっており、そのうちの大部分は環境に適応しないので消滅する運命にあるが、そのうちの少数の変異は環境の変化に対応してかえって適応能力に優れていた。変わり種の存在を尊重することは、俗ないい方をすれば、保険をかけるのと同じようなものである。彼らの存在は、ときには社会的コストとしか感じられない場合もあろう。しかし、社会が変貌したり、自然環境が変化したときに生きのびられるのはどのような人なのか?それは、人知では予測できない。だからこそ、人類は多くの個性豊かな人種に分化し、同じ人種の中でも、多くの個性を生み出し、病人・障害者も含めてこれを包みこみ、未来の生活環境の変動にそなえているのだ。微細な脳障害を持った人々もまた、現代社会にとって不適応を示す可能性が高いものの、また新しい文化の担い手として、これからの社会に必要な人材の供給源となる可能性も否定できない。」と書かれている。

この考え方はすごく良い考え方であると思う。まず、日本人は皆同じ物を好んでいた。つまり皆と同じ事に価値があると思っていたわけだ。最近は変わっ てきただろうが、ファッションにしても個性が無かった。同じでないことがダサかった。いまは変わってきたとはいっても、その考え方を持っている世代が現在親となり子育てをしている。

以前のメモでもふれているが、多様性があるからこそ、種の存続をはかることが出気るわけだ。皆同じ血液型、体質、好みだと、同じ種類の驚異でその種は滅びてしまう。多様性があるから、種の存続をはかることだ出来る。

そこで、障害とはなにか?障害者とはどういうことか?を考えてみたい。健常者というワクを考えた場合、そこからはみ出す人を障害者と位置づけているのではないか?厳密にいえば違うかもしれないが、多数側から見た表現にすぎない気がする。

電気製品で考えてみるとわかりやすいと思うが、普及版のものを、あるいみ健常者としよう。そして、最新の新しいものを見た場合、使いにくければ支持されない。その使いにくい、支持されない点をあえて障害とみることも出来るかもしれない。

しかし、たまたま使いやすく、ある優れた点を評価されれば、新製品と奉られる。ちょっと表現がオーバーになってしまったが、電気製品の場合、所詮そんな感じであると思う。

今度は多数少数という観点からみてみたい。人に関して言うと、左利きの人がいる。基本的に多数にあわせて右利き用に世の中はできているので、ある意味で左利きの人は多少生活しにくいと思う。電車の改札も右側に挿入口があるし、パソコンのマウスもデフォルトで右利き用にしてある。多数いるのだから当たり前である。じゃあ左利きは障害かというと、厳密に脳の機能までみると変わってきてしまうが、単純に肉体的に見た場合、単に利き手が左なだけである。

しかし、何度も言うが本人は多少生活しにくいと思う。慣れてしまえばこんなものであろうし、他人には迷惑をかけていないから、問題ないと言うかもしれない。もちろん左利き自体の人数もそこそこいるので、左利きに対する対応も、社会がある程度出来るようになっていることもあるだろう。そういうこともあり障害と呼ぶ必要もなければ、誰も障害とは思わなだろう。ただし、もし1000人に1人程度なら、社会の対応も出来ていないし、あまりいないため遭遇すると周りもいやがる可能性もあり、本人も生活しにくいだろう。そのような場合、障害と呼ばれることがあるのかなと思ってしまう。もちろん左利きの方を障害とは思っておりませんので、ご理解いただきたい。

今度は、障害ということについて別の観点からみてみてみたい。たとえば自分の容姿などが嫌いで、他人とあまり接触したがらない状態で、他人と口もき けなくなったりした場合、明らかにコミュニケーションの障害になっている。そこで気になるのが、障害者という呼び方だ。この場合先天的でないので、障害者と呼ばないだろう。じゃあ先天的な場合、障害者とよび後天的なら呼ばないのか?そんなこともないはずだ、事故などで、後天的に身体が不自由になった場合、障害者と呼んでいるケースもあるはずだ。つまり、先天的でも後天的でも障害者と呼ぶケースがあるのかだら、先天的・後天的の問題ではではないのだ。

じゃあ、いっそ辞典で調べてみよう。

身体または精神に何らかの障害をもつ者。心身障害者。三省堂提供「大辞林 第二版」より

とのことだ、なんだかさっぱりわからない。この表現だとみんな障害者になってしまう。

まあ現時点でみると、「一時的な場合、障害」といい、「永久的な場合、障害者」と呼ぶのが近いのかなと思う。

結局「障害」「障害者」という言葉は、多数派からみたある意味差別的用語と感じてしまう。痴呆症も認知症云々といっているぐらいだから、とくに「障害者」という表現は変えてはどうだろうか?

人の場合、多数派でなくても、その本人が多数派の社会に入って苦しくなければ、障害と思う必要はないと考えたい。本人が苦しいなら障害と思っても仕方がない。ここで言いたいのは「本人の気持ち」である。決して親の世間体や家族、世間の人の気持ちではない。

そういうわけで、たまたまADHDや自閉症であったとしても、その可能性を無視して、皆と同じようにする事、社会で普通に見えることだけにこだわらないで、もっと大きな気持ちで、見てみるといいのではないかと思う。特に社会に何とか適応しているADHDや高機能自閉症、アスペルガー症候群の人たちの中には、ある程度社会と関わりをもった上でまわりが羨むほどのとんでもない才能を持っている場合が、多々あるのだから・・・

ティータイムその10

tea10「カーナビの指示通りに運転する人間」と聞いて皆さんはどう思うだろう?

たとえば、おなかが空いた場合、どこに食べにいこうとなる。

しかし、生理的におなかがすき過去に行ったことがあるお店を検索し、その中で今の自分の体が欲していると思われる成分の入った料理をセレクトし、あたかも私自身が決めたかのように「あ!○○へ食べに行こう」となる。

実際は体の言うとおりにしただけなのに、いかにも自分自身である「私」が決めたかのように・・・

そういうことを書くと、そんなわけないだろう。自分である「私」という「意識」とよべるようなものが決めたんだ。と反論されそうである。

本当にそうだろうか?

たとえば、トイレに行きたくなる場合は、どうだろう。時間的な縛りが無い場合、つまり、授業を受けているとか車に乗っているので、ある一定の時間帯にいかなければいけないような場合を除いて、考えてみると、トイレに行きたいと体が要求する。それに対して、ではトイレに行くかと「私」考えたようになるのではないだろうか?

最終的に「私」が行く決断をしていると感じるが、そのトイレに行った方がいいと言うアドバイスをしている何かに従って、「私」が決めたと思っているだけではないだろうか?

つまり、冒頭にあるように、「カーナビの言うとおりに運転している人間」である「私」のように
・・・

そう考えると「私」という「意識」と呼べるようなものは、そう大したことのないもののように思えてならない。運転について考えると、なおさらそう思えてならない。

つまり、脳内では民主主義のようになっているのではないだろうか?

本当に「私」と呼べる「意識」のようなものが、別次元の存在であり、人間の脳だからこそ(逆に人間の脳だからここに書いているような形態の「意識」とよべる「私」が生まれたのかもしれない)生まれたのならば、もっと意志というような物が強くてもいいきがするが、いかがだろうか?

それは、体からセンサー情報を受け取る脳細胞の言うとおりに従って、単に行動しているような気がする。

たとえば今日からダイエットするぞと「私」が宣言しても、気がつくといつもと同じように食事をしてしまったり、明日からにしようとなって、結局実行されなかったりする。

もちろんしっかり実行するケースもあるだろう。

たとえば、夏までに痩せて水着を着ようなどという目的がある場合、しかし、このケースでも違うかもしれない。そのような目的を自分で決めているとしても、なんの為に水着を着るかという事を考えると、いい配偶者を捕まえる為だったりするのかもしれない。もし、そうなら本能がそうさせるわけなので、「私」という「意識」だけではないかもしれない。

つまり、その程度の存在ではないだろうか?

だから、たとえばの話であるが、ADHDのお子さんが、いくら注意をしても、じっとしていられないなどの行動をとるのは、「私」という存在より、「脳」の民主的な全体意見で、体を動かすという事を選んでいるからではないだろうか?

いわゆる「わかちゃいるけどやめられない」ということになると思う。

ここで、言いたいのは「私」という「意識」みたいな物を軽んじることではない。

どうしても、ADHDや自閉症のお子さんの行動を理解できない方には、このように考えてもらうことで少しは理解できるのではないかと思い、反感を持つ方がいるかもしれないが、あえて自分の思っていることを書かせていただいた。(あくまても私が思っていることで、こうだといっているのではないので、ご了承いただきたい。)

だから、ある意味の結論ではあるが、いくら言ってもできないのは、やる気がないからとか、意志が弱い、とかいうことより、脳のなかでそのような事(ADHDや自閉の症状)を好む状況になってしまっているからであり、この根底を理解してはじめて改善に向かうのではないだろうか?

広汎性発達障害って便利?

「ADHD、LD、HFPDD、軽度MR児保健指導マニュアル―ちょっと気になる子どもたちへの贈りもの 編者小枝達也」を読んで引き続き取り上げていきたい。以下点線(--)間引用

----------------------ここから
HFPDDとは?
広汎性発達障害とは、自閉症と同質の社会性の障害を中心とする発達障害の総称です。自閉症スペクトラム(連続体)と呼ばれることもあります。知的障害を伴わない自閉症は慣例的に高機能自閉症と呼ばれてきたので、知的障害をともなわない広汎性発達障害をHFPDDと呼んでいます。そのなかには高機能自閉症、アスペルガー症候群、高機能のその他の広汎性発達障害(非定型自閉症)の三者が含まれます。

頻度はどのくらい?
自閉症は1万人に4~5人程度のまれな病気と考えられました。また、知的障害を伴わない自閉症はさらにその2割程度といわれていました。しかし、最近の調査では、HFPDDは従来考えられていたよりもずっと多いことが明らかになってきました。<省略>250人とか200人に1人存在するのです。

症状は?
広汎性発達障害という名称の意味は、自閉症の3つの主症状である(1)社会性の障害、(2)コミュニケーションの障害、(3)想像力の障害に加えて、 (4)多動や不器用など行動や指先の発達にも乱れを生じる、ということなのです。<省略>発達障害は加齢によって、また療育によって大きく変化するということです。<以下省略>
----------------------ここまで

知的障害をともなわない広汎性発達障害をHFPDDと呼んでいるとのこと。

この広汎性発達障害という言葉は、ある意味診断する側からすると便利で、診断された方も、あまりショッキングではないような、あいまいな診断名であると思う。

自閉症スペクトラムに属する(自閉症スペクトラムから正常域へと繋がって行くがそのボーダーラインは、特別はっきりしていないようだ)場合は広汎性発達障害といえるわけだから、使い安い診断名になるだろう。

そういうわけなので、これは個人的な意見ではあるが、高機能自閉症といわれるより、知的障害をともなわない広汎性発達障害やアスペルガー症候群と診断される方が、気分は落ち込まないのではないだろうか?(実際には高機能自閉症とアスペルガー症候群は、診断する際に分けないケースが多いかもしれない)

痴呆症が認知症に呼び名を変えたように、広汎性発達障害という表現は自閉症を直接的に表す言葉からみると、ある意味やさしいような気がするが、実際にはなんのことやらさっぱりわからないということになるだろう。

そして、問題はここからだ。学校などで担任の先生に「この子は広汎性発達障害です。」といってもピンとくる先生とわからない先生がいることだろう。第一、ADHD,LD,自閉症などの違いがわかっても、実際には合併しているケースも多々あるから、問題がある生徒を見た場合、よくわからない先生も多いのではないだろうか?まして広汎性発達障害では、なんの事やら・・・となってしまうようなきがするが、考え過ぎか・・・

ADHD発症児の母、喫煙率は一般の2倍とのアンケート結果

ADHDの子どもの場合、母親の喫煙率が同年代の女性の2倍程度高いことがわかったとのこと。

これはもう、個人問題ではなく、社会問題になってきている。

特に喫煙が健康にいいということは、当たり前だが、だれも聞いたことがない。

ただ、落ち着くというひともいる。

しかし、それは、喫煙する必要が無い当時、安易な理由で喫煙し、中毒的になってしまっているので、タバコを吸うことで落ち着くということだと思われる。

少なくとも自動販売機で買えるようにしていることを、すぐにでも止めるというのはどうだろうか?

人類の未来をささえる子供達を守るためにも、喫煙をもう一度見直してみてはいかがだろうか?